笠置シヅ子さんには一人娘のヱイ子さんがいます。
このヱイ子さんの父親は、“あの”吉本興業の御曹司・吉本穎右(えいすけ)という人物で、
かなりのイケメンだったことがわかりました。
そこで、この吉本穎右さんと笠置シヅ子さんの間に娘が生まれるまでの経緯(馴れ初め)や、
娘・ヱイ子さんの名付け親である吉本穎右さんについて紹介していきます!
笠置シズ子の娘・ヱイ子の父親は吉本興業の御曹司!
笠置シヅ子さんの娘・ヱイ子さんの父親、つまり笠置シヅ子さんの夫は誰なのか?
それは、吉本興業の御曹司だった吉本穎右(よしもと えいすけ)さんという方です。
吉本穎右さんのプロフィールを簡単にまとめます。
- 名前:吉本 穎右(よしもと えいすけ)
- 初名:吉本 泰典
- 生年月日:1923年(大正12年)10月26日
- 出身地:大阪府
- 出身中学:大阪府立北野中学校
- 学歴:早稲田大学 仏文科
- 父:吉本泰三【吉本興業 創業者】
- 母:吉本せい【吉本興業 初代社長・会長】
- 内縁の妻:笠置シヅ子(亀井静子)
- 娘:亀井ヱイ子
吉本穎右(泰典)さんは父親が吉本興業の創業者のため、吉本興業の御曹司だと言えます。
そんな吉本穎右さんは吉本家の次男として生まれますが、
年の離れた長男は幼くして既に亡くなっている状態で、他の兄弟は6人ともが女性(姉)ででした。
また、その姉たちも皆、早くに亡くなっているという境遇でした。
そして父親の吉本泰三さん(39歳)もまた、
生後間もなかった吉本穎右さんを残して亡くなります。
そのため吉本穎右さんは吉本興業の跡取り息子として、母親・吉本せいさんから期待され、
それはそれは大事に育てられました。
ところが、吉本穎右さんは幼少より病弱だったこともあり、
1944年、当時“不治の病”と言われた結核にかかってしまい、
喀血(かっけつ=肺や気管支からの出血が咳をした時に出る)してしまいます。
これを理由に、吉本穎右さんは学徒動員を免除されています。
そして1947年(昭和22年)の5月19日、結核の悪化のため、23歳という若さで亡くなりました。
結核(肺結核)とは
- 結核は昭和20年代まで「不治の病」と言われ、死亡原因の第1位だった。
- 身体の抵抗力(免疫)が弱い時などに発病し、慢性感染症である。
- 症状は風邪(咳・痰・微熱・倦怠感など)とよく似ている。
- 病状は、症状が「良くなったり悪くなったり」しながら進行していく。
笠置シヅ子と吉本穎右は事実婚だった
吉本穎右さんが亡くなった当時は戦中戦後の混乱があったこともあり、
笠置シヅ子さんとは婚約関係であったものの結婚(入籍)するには至らず、
2人の関係は事実婚状態でした。
そのため、吉本穎右さんは笠置シヅ子さんの「内縁の夫」と言われています。
またこの時、笠置シヅ子さんは吉本穎右さんの子を身ごもっていました(臨月だった)が、
吉本穎右さんは生まれてくる子の顔を見ることなく、この世を去りました。
笠置シズ子と吉本穎右の馴れ初めは?
笠置シヅ子さんと吉本興業の御曹司・吉本穎右さんの最初の出会いは、ある役者さんの楽屋挨拶の時でした。
その“ある役者さん”とは、笠置シヅ子さんの先輩役者である辰巳柳太郎さんという方で、
1943年当時、名古屋の御園座(みそのざ)というところで公演をしている時でした。
その6月28日、笠置シヅ子さんは挨拶のため楽屋に訪れたのですが、そこにはたくさんの女性がいる状況でした。
そんな状況下で、“ある男性”がその楽屋口で躊躇していることに気を留めた笠置シヅ子さん。
後ろ姿からわかるその男性の特徴は、
- シックなグレーのスーツを着用
- 頭は丸坊主
- 背が高い
笠置シヅ子さんはその男性に楽屋内へ入るよう促すため、
声をかけようと男性の顔を見ると、言葉が出ないほどのイケメンだったのです。
圧倒されてしまった笠置シヅ子さんは立ち尽くしてしまい、
そうこうしているうちに、そのイケメンは楽屋挨拶を諦めて帰ってしまったそうです。
吉本興業のイケメン御曹司は笠置シヅ子の大ファン
名古屋で先輩俳優・辰巳柳太郎さんの楽屋挨拶を終えた笠置シヅ子さん。
その翌日のこと、笠置シヅ子さんは宿泊先の旅館でドキッとすることがありました。
なんと、昨日の超イケメンを目撃したのです。
(実はその旅館は吉本興業の定宿でした。)
そして更に翌日のことです。
その日は笠置シヅ子さんが名古屋の太陽館というところで公演を行っていました。
するとその終演後、楽屋に“吉本興業の名古屋主任”と共に現れたのは、
例の“あの”イケメンでした!
お察しの通りそのイケメンこそが後に笠置シヅ子さんの内縁の夫となる吉本穎右さん、その人でした。
笠置シヅ子さんが語る当時の吉本穎右さんの印象は、
アメリカの映画俳優“ジェィムズ・スチュアート”のようだったそうです。
そんな吉本穎右さんは、実は笠置シヅ子さんの大ファンだったため、
同行していた吉本興業の名古屋主任に「紹介してくれ」と頼み、
「この青年は、吉本興行の御曹司で笠置の大ファンだ」と紹介してもらったのでした。
吉本穎右さんは緊張した面持ちで笠置シヅ子さんを前に一枚の名刺を差し出し、
「自分は、吉本穎右と申します。」と名乗り、そこで初めて二人は言葉を交わしたのです。
ちなみに、この時の名刺を笠置シヅ子さんは終生、肌身離さず身に付けていたそうです。
そして、その時交わした会話の流れから、
翌日二人は共に名古屋から大阪方面の汽車に乗る運びとなり、交流が始まるのでした。
笠置シヅ子と吉本穎右は9歳の“年の差”カップル
二人が出会った1943年当時、吉本穎右さんは早稲田大学に通う19歳(20歳になる年)でした。
一方の笠置シヅ子さんは当時29歳で、9つの年齢差があったので、
二人の関係性は始め、“姉と弟”という感じだったようです。
しかし笠置シヅ子さんの自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』においては、
吉本穎右さんに対して次のように表現しています。
- 眉目秀麗(びもくしゅうれい)な貴公子
- 非常に心のやさしい、フェミニスト
※「眉目秀麗」…顔だちが整っていて、とても美しい男性のこと
※「フェミニスト」…多様な価値観を受け入れられる人
実は、笠置シヅ子さんはイケメン好きだったと言われているのですが、
吉本穎右さんの見た目だけではなく、その人柄にも惹かれたようです。
そしてそんな笠置シヅ子さんの大ファンだったイケメンの吉本穎右さん。
9歳という年齢差を超えて互いに惹かれ合い、次第に恋愛感情へと変わっていったようです。
ちなみに当時は、女性が9歳も年上という恋人関係は、“ありえない”関係だったようです。
しかし恋仲となった二人の恋は一気に加速し、交際1年ほどで婚約するのでした。
笠置シヅ子と吉本穎右はどんな交際をしていた?
笠置シヅ子さんと吉本穎右さんはどのような交際をしていたのでしょうか。
2人が出会った1943年当時、吉本穎右さんは東京の早稲田大学に通う学生。
一方の笠置シヅ子さんは地方巡業などをしていた時期でしたが、
笠置シヅ子さんが東京に戻ってからは互いの家を行き来するようになりました。
大阪出身の2人の会話は、テンポやノリの良いやり取りだったそうです。
そんな2人はやがて男女の関係に。
その頃には吉本穎右さんの住む家で会うことが多くなり、
吉本穎右さんは率先して笠置シヅ子さんの身の回りの世話をするなどしていたそうです。
しかし、吉本穎右さんの母・せいさんは2人の交際を認めようとしませんでした。
その理由には諸説ありますが、主に2つ。
- 笠置シヅ子さんが年上だったから。
- 吉本興業の跡取りである息子を溺愛していたから。
そのほかにも、2人の交際には様々な苦難がありました。
- 1944年、吉本穎右さんが結核を患う。
- 1945年5月、東京大空襲に遭い、2人とも家を失う。
- 1946年、吉本穎右さんが大学を辞め吉本興業で働き始める。
吉本穎右さんが吉本興業で働き始めた理由は、母親に笠置シヅ子さんとの結婚を認めてもらうためでした。
このように、空襲などさまざまな困難に遭いながらも、
一緒に居られることに幸せを見出していた笠置シヅ子さんと吉本穎右さん。
そうして過ごしていた1946年の10月、笠置シヅ子さんが33歳の時、妊娠が発覚します。
笠置シヅ子の娘・ヱイ子は父親に会ったことがない
冒頭でお伝えしましたが、吉本穎右さんは結核のために1947年の5月19日、
23歳の時に亡くなっています。
しかしその頃の笠置シヅ子さんは、実はまだ妊娠中だったのです。
以下、吉本穎右さんが亡くなるタイミングと、笠置シヅ子さんが娘を出産するタイミングについてまとめます。
- 1947年1月、結核が悪化した吉本穎右さんは、兵庫県西宮市にある実家で療養に専念するため、東京駅で笠置シヅ子さんに見送られ離ればなれになる。
※大阪の吉本興業でしなければいけない仕事があったとの情報も。
↓ - 同年1月~3月、笠置シヅ子さんは妊娠5ヶ月を過ぎ、目立ってきたお腹を隠しながら主演舞台(引退公演)を務める。
↓ - この頃には吉本せつさんの“結婚への反対”が和らぎつつあったので、笠置シヅ子さんは結婚の準備を進める。
↓ - 吉本穎右さんは結婚・入籍・生まれてくる子を認知するために、再び上京するつもりだったが、病状が悪化し、5月18日に危篤状態となる。
↓ - その頃、出産予定日を過ぎていた笠置シヅ子さんは、5月19日に東京にある産婦人科に入院するが、その日の夜に吉本穎右さんの訃報を受ける。
↓ - 5月23日、吉本穎右さんの側にずっと付いていた人物が笠置シヅ子さんのもとを訪れ、吉本穎右さんの預金通帳と意志(遺言)を渡す。
↓ - 6月1日、笠置シヅ子さんは亡き吉本穎右さんの浴衣を握り締めながら、女の子を出産。
吉本穎右さんは生まれてくる子の誕生を待ちわびていましたが、
無情にもその願いは叶えられませんでした。
また笠置シヅ子さんも、なんとかもうひと目、吉本穎右さんに会いたいと願っていたものの、
遂にその願いは叶えられませんでした。
笠置シヅ子の娘の名付けは父親・吉本穎右の遺言
吉本穎右さんは生前、生まれてくる子のために準備していたことが2つありました。
それは、
- 「吉本静男」名義の通帳と、印鑑
- 生まれてきた子への名付けについて
吉本穎右さんが用意していた「吉本静男」名義の通帳には、
吉本穎右さんが自身の給料から積み立てていた3万円(現代でおよそ300万円)が入っていました。
そして、「吉本静男」という名義に込められた吉本穎右さんの意志は以下の通り。
『生まれてきた子が男の子なら、亀井静子(笠置シヅ子の本名)の「静」を取って「静男」。女の子なら、穎右(えいすけ)の「えい」を取って「ヱイ子」と名付けてほしい』
これは吉本穎右さんの遺言とも言えるものでした。
その想いを受け取った笠置シヅ子(亀井静子)さんは、
生まれてきた娘に「ヱイ子」と名付け、自身の姓を継がせて「亀井ヱイ子」としました。
以上のように、娘のヱイ子さんと父親の吉本穎右さんの対面は叶わなかったわけですが、
ヱイ子さんは一生涯のプレゼントとなる「名前」を父親から贈ってもらったわけですね。
ちなみにですが、ヱイ子さんが誕生した以降に、
吉本穎右さんの母・吉本せいさんから、孫のヱイ子さんの引き取りの申し出がありました。
しかし笠置シヅ子さんは、“貰い子”であった自身と同じ境遇にはさせまいと、その申し出を断っています。
最後に
笠置シヅ子さんの娘と、その父親である吉本穎右さんについてお伝えしてきました。
時代の流れに翻弄されながらも、純愛を貫いた笠置シヅ子さんと吉本穎右さん。
そんな二人にとって大事な大事な一人娘のヱイ子さん。
そんな亀井ヱイ子さんは2023年現在、76歳を迎えていらっしゃいます。
それでは、ここまでご覧いただきありがとうございました!