その他

鳥羽周作のサッカー人生を紹介!横浜FCの練習生で夢を諦めた理由は?

鳥羽周作のサッカー人生を紹介!横浜FCの練習生で夢を諦めた理由は?

代々木上原のレストラン「sio」オーナーシェフの鳥羽周作さん。

ミシュランガイド東京では一つ星獲得の常連です。

そんな鳥羽周作さんは料理人になる以前は、

プロのサッカー選手を目指しており、小学校の教員もしていたという経歴をお持ちです。

この記事では、鳥羽周作さんがプロのサッカー選手を目指し奮闘していた学生時代、

そして教員時代を経て夢を諦めてしまった理由について、

鳥羽周作さんのサッカー人生を紹介していきます!

鳥羽周作のプロフィール

  • 名前:鳥羽 周作(とば しゅうさく)
  • 生年月日:1978年5月5日(2023年6月現在、45歳)
  • 出身地:埼玉県戸田市
  • 家族構成:妻、息子2人
  • 出身高校:浦和市立南高等学校
  • 出身大学:仙台大学体育学部
  • 好きな色:ネイビー

鳥羽周作さんがサッカーで好きな選手についてはこちら↓

  • アンドレア・ピルロ
    イタリアの元選手。正確なパスと高度な戦術眼を武器に、中盤に君臨した司令塔。
  • ジャウミーニャ(ジャウマ・フェイトサ・ジアス)
    元ブラジル代表。1994年にJリーグの清水エスパルスでプレー。
  • ラウール・ゴンザレス
    元スペイン代表。現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。

ちなみに、鳥羽周作さん自身のサッカーでの役割はボランチだったそうで、

スペースを探してスルーパスを出すことが好きだったそうです。

スポンサーリンク




鳥羽周作のサッカー人生を紹介

鳥羽周作さんのサッカー人生を時系列でご紹介していきます。

鳥羽周作がサッカーを始めたきっかけ

戸田市サッカー協会50周年記念式典

鳥羽周作さんがサッカーを始めたきっかけは、ご両親のすすめだったようです。

喘息で体が弱かった小学校2年生のときに、何かスポーツをやらせたいというという両親の意向と、周りの友達がみんなサッカーをやっていたことが重なり、地元のサッカー少年団に入りました。

引用元:SAMURAI BLUEの中の人

鳥羽周作さんは埼玉県戸田市出身なのですが、

戸田市のサッカー協会は2017年に50周年を迎えるほどの歴史があり、

ご両親が「サッカー」を選ばれた理由は

身近にあったスポーツだったからかもしれません。

鳥羽周作は小学校時代サッカーでエースだった

鳥羽周作と父・鳥羽孝二鳥羽周作さんと、父・孝二さん(右:当時72歳)

喘息持ちで小学2年生からサッカーを始めた鳥羽周作さんですが、

元々走ることが得意だった鳥羽周作さんは瞬く間にチームのエースとなりました。

そして、小学4年生の時にはプロを目指すようになります。

当時サッカーの練習が終わったあとには友達も一緒に鳥羽周作さんの家へ行き、

料理人のお父様(孝二さん)が作ったごはんを一緒に食べていたそうです。

鳥羽周作のサッカー人生のキーパーソン「三浦知良

ブラジルのコリチーバFC時代の三浦知良選手ブラジルのコリチーバFC時代の三浦知良選手

小学4年生の頃にはプロサッカー選手を目指していた鳥羽周作さんですが、

鳥羽周作さんが小学5年生の頃、静岡県で行われた大会に出場した際、

なんと偶然会場に来ていた三浦知良選手(静岡県出身)と一緒に

お弁当を食べるという機会に恵まれたそうです。

そして、帽子にサインをしてもらった時に、

いつかカズさんと一緒にプレーしたいです』と伝えたところ、

鳥羽周作さんの目を真っ直ぐ見て『待ってるよ!』と返してくれたそうです。

鳥羽周作さんはその言葉を胸に、

小学4年生の頃から抱いてきた“プロになる”という夢を叶えるため、

サッカー一筋の生活を送ります。

スポンサーリンク




鳥羽周作の出身高校はサッカーの名門「浦和南高校

鳥羽周作、高校時代、最後のサッカー試合AS Flügelsのユニフォームを着た高校時代の鳥羽周作さん

鳥羽周作さんの小学校卒業後はというと、中学は地元の学校に進んだのち

高校はサッカーの名門である浦和市立南高等学校

(現:さいたま市立浦和南高等学校)に進学しました。

この頃はプロになる夢を叶えるべく、日々地獄のような練習を続けていたそうです。

ちなみに上記画像は高校時代の最後の試合前のひとコマですが、

ユニフォームは横浜フリューゲルス」のものを着ていますね!

そのほか、スパイクは名古屋のショップ「サントス」から取り寄せるなど、

用具にはこだわりがあったようです。

鳥羽周作、大学でサッカー人生に行き詰まる 

鳥羽周作さんは高校卒業後、仙台大学の体育学部に進学しました。

仙台大学では先輩に“アジアの渡り鳥”の異名を持つ伊藤壇選手もおり、

お二人の当時の思い出の店として、お惣菜屋さんの「二瓶」というお店があります。

しかし現在は閉店しており、鳥羽周作さんも懐かしさと共に残念な想いを語っています。

そんな大学時代の思い出もある鳥羽周作さんですが、

実はこの頃、試合に出られない日々が続いたことで遊んでしまうことも増え、

大学時代は「不毛の時代」だったそうです。

しかし、元々ご両親から「公務員になってほしい」という希望があったからか、

専攻していた体育学部で取得できる資格の

「小学校教諭二種免許状」を取得されています。

スポンサーリンク




鳥羽周作、小学校教員をしながらプロサッカーを目指す

鳥羽周作、勤めていた小学校にて勤めていた小学校にて(2022年)

仙台大学を卒業した鳥羽周作さんは、小学校の教員として就職をしました。

サッカー人生から突然の方向転換のように思えますが、その理由としては、

“比較的、練習時間が作りやすいと思ったから”だそうです。

鳥羽周作さんの小学校教員時代まとめ

  • プロのサッカー選手になる夢は諦めていなかった。
  • サッカーの練習時間を確保するために臨時採用枠の小学校教員になった。
  • 働きながらも、本気でプロサッカー選手になる努力をしていた。
  • 社会人リーグで平日は週4回の練習、土日はリーグ戦という生活を送っていた。
  • 子どもたちにサッカーを教えることもあった。

そんな日々を送っていた鳥羽周作さんですが、

実はこの頃、サッカーJリーグの「横浜FC」の練習生として

プロサッカー選手に挑戦していました。

練習生になるには、そのクラブの関係者(大学・高校のサッカー部監督やコーチ、代理人、元プロサッカー選手など)の何らかのコネクションが必要。

おそらくですが、鳥羽周作さんが高校時代に着ていた

横浜フリューゲルス」のユニフォームから察するに、

「横浜FC」のファンだったことから、同クラブの練習生になったのでしょうね。

1998年、横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併され、横浜フリューゲルスのサポーター有志によって横浜FCの運営会社が設立されました。

スポンサーリンク




鳥羽周作がプロのサッカー選手の夢を諦めた理由

“サッカーのプロ選手になりたい!”その想いで、

それまでの人生の9割をサッカーに費やしてきた鳥羽周作さんでしたが、

ある時、プロへの夢を諦める瞬間が訪れます。

それは、鳥羽周作さんがまだ小学校の教員をしていた25歳くらいの時のことです。

大野敏隆さんという同い年のプロサッカー選手のスルーパスとボディコントロールを見て、その時に「こんな人がいるならプロになれない」ことを痛感してしまって。彼のセンスに脱帽し、サッカーをやめることを決意しました。

引用元:SAMURAI BLUEの中の人

実はこの頃、鳥羽周作さん自身、

正直、『サッカーでご飯を食べていくのは無理かな』という気持ちがあったようですが、

その一方で、活躍している人を見ると「嫉妬」や「羨ましさ」を感じていて、

そんな自分に嫌気がさし、“サッカーでプロになる”という夢に終止符を打つことにしたそうです。

スポンサーリンク




サッカーのプロになる夢を諦めた鳥羽周作が思うこと

夢を諦めた当時を振り返った時に鳥羽周作さんが思うことには、

『試合で活躍している姿がイメージできなかったから』なんだとか。

「自分がどのチームのユニフォームを着て、どの試合に出ている」かが、明確に映像として頭の中に浮かんでいなかったから、サッカー選手になるという夢が叶えられなかったのだと思います。

引用元:SAMURAI BLUEの中の人

ちなみに、鳥羽周作さんが小学校の教員を辞めたのは2008年、30歳の頃です。

教員を辞めた理由は、「学校」というものの在り方と、

教員としての自分の思いが乖離(かいり)してしまい、

教員を続けていくことが難しいと感じたからだそうです。

その後、料理人になるべくレストラン業界の門を叩いた31歳以降は、

どんなに厳しい修行も、それまでのサッカー人生で培った根性で乗り越えられたと言います。

最後に

奇しくもプロのサッカー選手への夢を諦めてしまった鳥羽周作さんですが、
 
その後の料理人としての歩みには
 
サッカーと向き合った日々が大いに役立っているようですね。
 
それでは、ここまでご覧いただきありがとうございました!
error: クリックできません。